1963年世界グランプリ最終戦鈴鹿に,ホンダ,ヤマハは新型エンジンを投入,特に4気筒のホンダは50馬力までパワーアップされていた.エンジンを含めて万全の体制でレースを迎えた日本勢に対してモリーニ・チームはこの年に初めて行われた鈴鹿グランプリに遠征するだけの資金がなかった(鈴鹿サーキットはこの前年に完成,現在(2013年)50歳ということになる).そのためプロビーニが個人で義援金を集め,なんとか 日本まで来ることができたが,彼は途中の飛行機の中で中耳炎を発症,体調は万全とは言えなかった.
本番レースでモリーニ・チームには高低差のある鈴鹿サーキットに合わせたセッティングをするだけの時間はなかった.そもそも名手プロビーニをしてもこれだけのパワー差は如何ともしがたかった.レースは序盤からレッドマンのホンダと,伊藤史郎とフィル・リードが乗る2台のヤマハの三つ巴の争いとなる.プロビーニは,この三台のマシンからしだいに引き離されてゆく.トップグループの三台は周回ごとに先頭が入れ替わるという激しいレースを展開,最終的にはレッドマンが0.1秒差で伊藤を抑えて優勝,プロビーニは1分遅れの4位(5位以下は更に引き離されていた)に終わった.
さてその後の話ですが,モリーニ・チームは63年をもってグランプリから撤退,この時プロビーニにはヤマハからオファーがあったのですが,「胸の内の愛国心」にしたがって,彼は勝てる可能性の少ないイタリアのベネリ・チームに移籍します.そして1966年に,マン島TTレースで転倒,大怪我をおってその後は車椅子が必要な体になってしまいます.
こうしてライダーとしての生活には終止符をうつことになったのですが,2輪への情熱は捨てがたく,バイクのプラモデルの会社「プロター」を設立します.この会社は彼の愛車モリーニ250を手始めに230種類ほどのプラモデルを世に送り出します(プロターは2003年にイタレリに吸収される).下に上げた【会報】によるとプロターの製品は
・(普通のメーカーが出さないような)希少モデルが多く高価
・どこで売っているかわからない
・部品が多くて製作が大変
・しかし出来上がると雰囲気が素晴らしい
とのこと.
【会報】
(プロビーニの記事は二つあります.)
2005年に突然の心臓発作によりプロビーニは亡くなりました.
「負けるとわかっていても意地を通す」と言う態度は現在では流行らなくなったけれど,それも悪く無い...と,などということを感じつつこの話題を終わりたいと思います
プロターの製品がどのようなモデルなのか気になる人は
をご覧ください.正直私には完成させることは絶対できないと思います.
あと,モリーニ250を含むプロターの作品を
で見ることができます.(なお,レッドマンのホンダと前後してコーナリングをしているプロビーニの写真もここにあります.)