2016年7月24日日曜日

数学とユダヤ人(3)

このような教師が集まった数少ない学校の一つにレニングラードの二百三十九学校がありました。ここでは、数多くの数学オリンピックの出場者を輩出しましたが、その1人にグレゴリー・ペレルマンという男の子がいました。誰もが認める突出した才能を持っている一方で決して自分のことを前面に出すことのないペレルマンの性格は変わり者が多い数学の才能をもった生徒の中でも際立って変わったものでした。(彼は後に「ポアンカレ予想」という大難問を解決するのですが、それに関わる栄誉を全て拒否し、その後表舞台から姿を消し外界とのつながりを一切断ってしまいます。)


ところでソ連ではユダヤ人の先生・生徒をとりまく状況は過酷なものでした。例えば、この頃二百三十九学校にはヴァレリー・リジクという数学教師がいました。彼は長年にわたりペレルマンを含む多くの数学の才能ある生徒たちを育てましたが、ペレルマンの学年を指導した後に学校を解雇されてしまいます。これは彼がユダヤ人であったこととユダヤ人教師を減らすように圧力があった事が原因とされています。

研究者の間ではユダヤ人の優秀さはよく知っています(例えばノーベル賞受賞者の四分の一はユダヤ人であるという統計もあります)。1979年のロシア共和国ではユダヤ人の人口比率は0.5%に過ぎなかったのですが二百三十九学校の数学クラブの生徒の半数以上がユダヤ人であったそうです(なおユダヤ人とは本来は「ユダヤ教を信仰する人」という意味であって、特定の人種を指すものではないそうですが、当時のソ連では民族の一つと考えられていました)。政府はこのような状態を好ましいものと考えず、二百三十九学校のようにユダヤ人を「優遇」している学校には圧力を与え続けていた、ということです。

2016年7月18日月曜日

数学とユダヤ人(2)

さて私は1958年生まれで物心ついたころはこの宇宙開発競争のまっただなかで子供心に新聞の一面に掲載される新しい展開にこころが踊ったものです。そしてこの競争のハイライトである1969年のアポロ11号の月面着陸と二人の宇宙飛行士の船外活動の様子を朝早くにテレビの実況で見たことは今でもはっきりとおぼえています。その後両国の経済状態の悪化を背景にして1989年冷戦が終結これをきっかけに1991年にソ連が解体することになるのです。さてこの宇宙開発競争が節目を超えた1970年代のソ連の内情については「停滞の時代」と呼ばれる時代であったことが明らかになっています。(技術的にもアメリカを中心としたインターネット等の技術革新に完全に遅れをとったのでした。)
マーシャ・ガッセン著の「完全なる証明」(訳青木薫)はこの停滞の時代でのソ連での子どもたちの生活を、著者自身の体験や詳細なインタビューに基づいて具体的に記述しています。国家の方針により全国に建設された同じ間取りの家から、これまた同じ校舎の学校に同じ時間に毎日通い、同じ授業を受け、最終的には皆同じ評価がなされる。これが毎年繰り返される生活をガッセンは「これほどつまらないものが、この世にあるだろうか?」と述べています。ここでは全ての生徒が画一的に育つ事が期待され、人より優れた能力を見せることは悪とみなされていたのです。但し、このような時代であっても、どうしてもそのような生活に馴染むことのできない、好ましくない子どもたち(「みにくいアヒルの子」と例えられていました)がいました。そのような生徒の中には数学に関する才能を持った子どもたちがいたのですが、それと同時に中央の方針に逆らってもその子どもたちの才能を伸ばすことに尽くした先生たちもいました。

2016年7月16日土曜日

数学とユダヤ人(1)

1960年代アメリカ合衆国(アメリカ)とソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の間では、冷戦(核兵器の発達により大国間の直接的な戦闘が不可能となった状態)を背景に、宇宙開発競争と呼ばれる技術開発競争が行われていました。1957年世界初の人口衛星打ち上げに成功したソ連は当初この競争でアメリカをリードし続けていたのでした。この技術は核ミサイルの開発に結びつくものであり、このことは一般市民を含めたアメリカ社会に大きな脅威となりました(この時の衝撃は人工衛星の名前にちなんでスプートニク・ショックとよばれています)。これに対抗することはアメリカにとって国家的な関心事となりましたが、その頃の世の中の一般的な見解ではソ連では西欧とは違った理論に基づく高度な科学教育が行われており、それがソ連の競争力の源になっているのだ、と思われていたようです。アメリカはこれに対抗するためにその一環として数学・理科教育の充実が図られました。