2025年7月14日月曜日

数学と生きづらさ(3)



さて、ここまでお話ししてきた内容を踏まえたうえで、いよいよ今回、皆さんと一緒に考えてみたい最初の問いを提示したいと思います。それは、

「大学数学における貧困問題」

です。まず、この問題設定を少し整理しておきましょう。たとえば、経済においては

「資本的な豊かさ」と「貧困」という対比があります。

それに対応させる形で考えると――

「資本的豊かさ」 → 「数学的知識やスキル」
「貧困」 → 「人生の中で必要な数学にアクセスできない、あるいは活用できない状態」

というふうに捉えることができます。このような枠組みのもとで、次のような問いを立ててみたいのです。

問いかけ:数学における「貧困問題」は、実際に存在するのか?
もし存在するならば、どのようなアプローチが可能だろうか?




ところで、そもそも「数学における貧困問題」は存在するのか――
これについて、私自身の実感としては、「かつては、そのような問題はほとんど意識されていなかった」と言えると思います。私自身の学生時代を振り返ってみますと、大学に入って最初の解析学の講義で、試験の成績があまりよくなかったことがありました。そのとき、担当の先生からこう言われたのです。

「数学は、才能のない人がやっても無駄です。向いていないと思った人は、できるだけ早く別の進路を考えた方がいいですよ。」

当時の大阪大学・数学科では、数学科の使命は「数学研究者の育成」であり、その枠に入れない学生は「教育の視野の外側」に置かれていたのです。つまり、「数学における貧困」といった問題意識そのものが、最初から存在していなかった。「理解できない側」にいる学生が何に困っているのか、という視点がなかったのです。

もちろん、現在の大学の教育環境は、当時とは大きく変わっているはずです。ただ、私の見るかぎりでは、今もなお、当時とあまり変わらないメンタリティを持ったままの教員も一部には存在しているように感じます。

とはいえ、私はここで誰かを批判するためにこの話をしているのではありません。できるだけフラットに意見を交わせる場にしたいと願っています。たとえば――「数学の貧困問題など存在しない」とお考えの先生方には、その理由をぜひ伺ってみたいですし、学生の皆さんからは、「大学の数学教育に何を求めているのか」「どんな力を身につけたいと思っているのか」を聞かせてもらえたら嬉しく思います。

次に仮に、「数学における貧困問題」が存在するとして、私たちはどうアプローチすればよいのでしょうか?私自身がこれまで試みてきた取り組みとして、2つの観点をご紹介したいと思います。

ひとつは、「数学をするとはどういうことか?」という“メタ認知”を学生と共有すること。「数学にとりくむとはとはどういうことか」をともに言語化し、共有するということです。

例えばこれは私が今年度担当している全学向けの講義「数学入門」の中の資料の一部ですが、ここでは

数学をすることは決して難しいことではない、それは言語を操る能力とほとんど変わらないものである、
ただし、
数学を始めることは難しい、数学の世界に入り込むためには、高い集中が必要で、これは時に人を危険に晒すほどである、

ということを述べています。このようなメタ認知があることで数学に対する姿勢がずいぶん変わるように思います。



もうひとつは、私が重視している次のキーワードです。
「数学がわかるときの“外見的停止状態”の大切さ」

大学で数学のセミナーをしている時に発表する学生が止まってしまって自分の考えに耽るような状態になることがあります。
このような時私は、しめたこれは学生が理解を獲得するチャンスだ、考えます。このようにセミナーで学生が停止状態になった時には私はまず

「いま、頭の中で何かを考えていますか?」
「もし頭が働いているのなら、何分でも待ちますから、考えが進まなくなるまで考えてください。」

と伝えて、ひたすら学生が反応するまで待ちます。
ところで大学教員が

「最近の学生は自分で考えず、すぐに答えを聞く」

と苦言を呈している姿をよく見かけますが、これは決して今に始まったことではなく、私が学生の頃からずっと言われていたことのように思います。ところで私はこのような教員の愚痴を聞くたびに

「学生が自分で考えなくなったのなら、そのことを愚痴るのではなく学生が自分で考える力をつけさせるのが教員の役目でないのか」

と思うのですが、あまりこのような意見は聞いたことがありませんが、これはどういうことなのでしょうか?ま、このことは置いておくとして、私は学生の外見的停止状態は学生が自分で数学の新しい概念を獲得する絶好の機会と捉えています。つまり、見た目には何もしていないように見える「考えこむ時間」――
その時間を周囲がどう支えるか。これは、学生が“自分で考える”力を育てるために非常に重要な観点だと思っています。






もしこの後、小グループなどに分かれて話し合う時間があるようでしたら、こうしたノウハウの共有や、大学の教育プログラムにどう組み込むことができるか――
そういったことについて、ぜひ皆さんと意見交換ができればと願っています。




2025年7月1日火曜日

数学と生きづらさ(2)

では、次に2つ目の観点についてお話しします。

最近、「生きづらさ」という言葉を耳にする機会がずいぶん増えました。
私の身のまわりでも、たとえば数年前に大学で行われた教職員向けの研修の中で、この言葉が取り上げられていたことがあります。


その研修では、最近の学生が抱えるさまざまな課題について紹介されていました。たとえば――
・大学に入っても、友達ができず孤立してしまう
・就職活動の一歩を踏み出せない
・ようやく就職しても、すぐに辞めてしまう

こうした学生たちの行動や状態の背景に、共通して見られる要因として、「生きづらさ」があるのではないか、という指摘がなされていました。

では、そもそもこの「生きづらさ」とは何なのか?
その正体とは何なのだろうか?
私の中にそんな問いが浮かびました。

その問いに向き合う中で出会った一冊の本があります。
タイトルは『消えたい』。
この本では子供の頃に虐待を受けた人たちについて書かれています。
このような人たちは虐待がトラウマとなって、多くの場合大人なっても生きづらさを感じながら生きていく、例えば結婚して母親になっても自分の子供を可愛がることができない、むしろ子供が近づいてくると恐怖を感じる、といった生活を送っています。
この本は、このような「生きづらさ」と向き合いながら、どのように生きていくのか――その姿を丁寧に描いた本です。


この本の中に、非常に印象に残った記述があります。

虐待を受けて育った人は、人生の辛さから逃れるために
「死にたい」とは言わない。「消えたい」という。

「死にたい」は、「生きたい」「生きている」を前提としている。
「消えたい」は、「生きたい」と一度も思ったことのない人が使う。


またこれは「僕には数字が風景に見える」という本です。
著者のダニエル・タメットは発達障害を抱え、子供の頃は
人と会話をしていても、相手の顔を全く見ずに、自分の言いたいことだけをひたすら喋り続ける、
といった具合で人とのコミュニケーションが取れませんでした。
そのころのことを彼は次のように書いています。

ぼくはいつも消え去りたいと思っていた。どこにいても自分がそこにはそぐわないと思っていた。まるで間違った世界に生まれてきてしまったような感じだった。

やはり彼も「消え去りたい」という表現を使っています。さらに彼は自分は「間違った世界に生まれてきた」ように感じていたのですが、私にはこれこそが「生きづらさ」の本質なのでは、と直感しました。つまり

「生きづらさ」とは、
“自分はここにいてはいけない存在なのではないか”という感覚のこと。

これが、私が気づいた2つ目の視点です。


最後に、3つ目の観点についてお話しします。


これは、鈴木大介さんの著書『されど愛しきお妻様』という本に基づくものです。
タイトルにある「お妻様」とは、鈴木さんの配偶者のことで、発達障害を抱えていらっしゃいます。

このお妻様は、いわゆる「日常生活」を送るうえで、多くの困難を抱えておられました。
たとえば――
・朝は起きることができない
・食事の支度ができない
・会話がなかなか噛み合わない
・買い物を頼んでも、時間がかかるうえに、関係のないものを買ってきてしまう

そうした様子に、当初の鈴木さんは戸惑い、ストレスを感じていたといいます。

ところがある日、鈴木さん自身が脳梗塞を患い、その後遺症として「高次脳機能障害」と診断されることになります。
この障害により、鈴木さんは、今までごく当たり前にできていたことが、思うようにできなくなるという、数々の不自由を経験することになりました。

しかし、まさにこの「不自由さ」を身をもって体験したことによって、鈴木さんは、お妻様が日々どのように世界を感じ、どれほど困難を抱えて生きているのか――
それを、ようやく実感をもって理解できるようになったと言うのです。

そしてその理解をもとに、鈴木さんはお妻様との関係を、少しずつ、でも着実に再構築していきます。
この物語は、障害をめぐる“共感の可能性”について、私たちに多くの示唆を与えてくれます。

本の中で、特に印象的だった一節をご紹介します。

見えない不自由を抱えた人たちに、やろうとしてもできないことを強いる。
そんな周囲の無理解が、一層当事者の不自由を「苦しみ=傷害」にしてしまうのは、
あまりに残酷なことだ。
環境が不自由を障害にする。
これは、さまざまな障害支援の現場で普遍的に語られている考え方だが、
僕は、自分が当事者になって、ようやくその意味を心の底から理解することができた。

私にとって、ここで得た最後の気づきは、この言葉に代表されています。


「環境が、不自由を障害にする。」

つまり、ある行動ができるかできないかは、本人の能力だけではなく、
その人が置かれている環境――周囲の理解や制度、文化――によって、大きく左右されるということです。そして私としてはこれに:

「テクノロジー」というのは、環境からくる「障がい」を無効化する機能がある

という主張を追加したいと思います。
この視点は、教育の現場や社会全体を考えるうえでも、非常に重要なものではないかと感じています。