(以下は本校の育友会の発行している冊子に寄稿した文章を若干改変したものです。提出日は2021年11月4日です。この前のポストと合わせてお読みいただければ、と思います。)
現時点でコロナウイルスパンデミックは小康状態に至っていますが、収束の道筋については依然として見えない状態です。今年(2021年)に入ってもじわじわと私たちを苦しめていたコロナウイルスは夏休み前に急拡大の兆しを見せていました。漠然とした不安を抱えたまま迎えた夏休み中に感染者数がうなぎ上りに増加、「10月には日本での1日の感染者が1万人を超える」という予測も現実的なものと感じられ、本校でも夏休み明けの授業はしばらくの間オンラインで実施となりました。ところが、理由は現時点ではわかっていませんが、その後感染者数は激減、それを受けて秋の運動会の実施を決定しました。ただ本音を言いますと、本当に運動会ができるという確信は持てませんでした。何しろコロナウイルス感染症に関しては、それまで常に私たちが予想していたよりも悪いことが起きていたのですから。ところが今回は良い意味で予想を裏切るような状況が続き、10月16日、変則的な形ではありますがなんとか秋の運動会を実施することができました。プログラムでは1、2、3、4年生と5・6年生のペアの「表現」のダンスが行われたのですがこのダンスを初めてみた新米校長には驚きと感激の連続でした。今回はこれに関連して考えたことについてお話をさせていただこうと思います。
ところで今年行われた東京オリンピック・パラリンピックのパラリンピック女子マラソン(視覚障害T12:視力0.0025から0.032まで、または視野直径10度未満)で道下美里選手が金メダルを獲得しました。右目は完全に失明、左目がやっと明るさを感じることができるほどの視力の道下選手は42.195キロを3時間50秒で走りきったのでした。この競技では選手に対して伴走者(交代で2名まで可)がつきます。伴走者は目が見えない選手に対して走路の状況、天候、他の選手との駆け引きなど様々な情報を伝えますが、ここで選手と伴走者の間で行われるやりとりについて美学者の伊藤亜紗氏は著書「手の倫理」の中で詳しい分析をされているので、少しその内容について紹介させていただきます。
伊藤氏は身体を通して行われるコミュニケーション(ここではスポーツやその練習で選手同士や選手とコーチが身体の動きをやりとりする場面を思い浮かべてください)の集まりの中に一本の軸を立て、その軸の一端を「伝達的モード」と定めています。この伝達的モードによるコミュニケーションとは、例えば、コーチが選手に「理想的な」体の動きを教え込む、といった状況を指しています。そこでちょっと考えてみてください。
問:この軸の反対側の端には一体どんなコミュニケーションのモードがあるでしょうか?
いかがですか。では答えを紹介しますね。伊藤氏は同書で「それは生成的モードでありそれを実現(生成的コミュニケーション)しているのがブラインドマラソン(以下では目の見えない選手と伴走者が一緒に走る運動一般をブラインドマラソンと呼びます)における選手と伴走者との関係である」(:小林の解釈によるまとめ)と述べています。突然、「生成モード」などという言葉が出てきてしまいましたが、これが、私が本校の「表現」について感じた気持ちに関わるものなのでもう少し踏み込んで説明したいと思います。
まず、ブラインドマラソンでは選手と伴走者は絆(きずな)と呼ばれる輪を二つ繋いだロープを使って繋がっていることを注意します。目の見えない選手に対して伴走者は急カーブなど意識的に体の動きをコントロールしなければならない時には、「あと二十メートルで左カーブ」のように言葉を使って明示的に指示を与えますが、緩やかなカーブでは特に声かけは行わずロープを通して伝わってくる微妙な感覚をもとに回っていくそうです。この時のロープの役目は物理的に少し選手を押す・引っ張るといった情報を伝達することにより「前にカーブがあるよ」と伝えることなのですが、長時間同じ動作を続けているとやがて二人の間の情報伝達のモードは、物理的情報交換より一段高いレベルに上がります。詳しくは伊藤氏の本を参照願いますが、やがて二人の間に「共鳴」という感覚が生じる、とのことです。この共鳴の状態においては選手と伴走者の間では、常に細かい情報のやりとりがなされており、これによって一方がメッセージの発信者、もう一方がメッセージの受信者、といった明確な役割分担が無くなり、そこでは予め予想していなかった体の動きが生まれてくる、つまり「生成される」、のです。この域に至ると選手と伴走者の間でやり取りされるのは「カーブがある」といった情報にとどまらず、視覚や感情といったものまで含まれるようになるとのことで、最高の状態では、目が見えない選手も「まるで走路が見えている」と感じられるとのことです。
このような状態のことを伊藤氏は「距離マイナスの感覚」と表現しています。直接体を触れ合うのが「距離ゼロ」の感覚とすると「距離マイナス」というのはお互いの体の中に入っていく感覚といいますか、具体的にいうと「伴走してもらう人・伴走してあげる人」という非対称な関係性は消えてしまい、一人の人間が走っているように感じる境地に至れるとのことです。そして、何よりも重要なことは、このような境地に入ったランを体験できた時には、順位や記録とは関係なく「幸せな感じ」になれるということです。これは生命が、そこに存在しているだけで喜びを感じられる姿(よろしければ「火の鳥 鳳凰編」(手塚治虫)のラストの場面で奈良の都を追われた我王が伏見の山奥で日の出を見て涙を流すシーンをご覧ください・・・コミックに興味のない人にはごめんなさいです)の表現のように見え、私も是非ともそのような体験をしてみたい、と思いました。
ところで、話は変わりますが、近年の人工知能(AI)への関心は「AIが人間の仕事を奪い、人間は無用になってしまう」という恐怖感に煽られているのか、AIバブル?とでも言いますか、やや加熱しているように思います。私自身は人間をAIに完全に置き換えるのは不可能、と信じていますが、同時にその理由をまだ言語化できていないもどかしさも感じています。「AIの限界」というテーマについては自然科学・情報科学の研究者や脳科学者・哲学者を巻き込んだ論争が長年にわたって行われていますが、その中でも特に「意識のハードプロブレム」つまり「物質および電気的・化学的反応の集合体である脳から、どのようにして主観的な意識体験というものが生まれるのかという問題」(Wikipediaの記述より要約)は、長年にわたる未解決の難問です。この問題に取り組むには人間の知性の形成には「身体性」が必要である、ということが國吉康夫氏等多くの研究者によって指摘されているところではありますがこれを説明する標準的な定式化はまだないようです。
さて話がどんどん広がってきましたが、ここから収束させましょう。私は「人間の意識を形作るには身体性が本質的」という考えに共感しています。個人的な見解ですがこの身体性が意識に関わるためのメディアとその機能として上記の「生成的コミュニケーション」が一つの可能性として、あるのではないか、と直感的に感じています。特にここで強調したい点はこの定式化における価値評価の基準として「幸せな感じ」がとれる事、そしてこのことは非常に好ましい事であると思っています。
これでやっと最初の話(運動会での「表現」)に戻れます。このダンスの運動場での練習は運動会の三週間前くらいから行われていました。その様子は時々見学していたのですが、それは5・6年生のペアの片方が練習している時にもう片方の学年がそれを観察していて終了後に意見を交換して改良を加えていくというもので、日ごとにダンスが成長していくのでした。これを見た時「これはまさに生成的コミュニケーションを実践している」と感じました。その結果出来上がったダンスを運動会当日拝見したわけですが、それはある意味型破りなものであり、いわゆる、「伝達的なコミュニケーション」が得意とするところの、「統制の取れた」というものではなく、生命の輝きを感じさせてくれるものであった事に感激して「この子達は人生の中でも重要な体験をしている」と思いました。そしてこれを観る機会を与えてくれた児童の皆さんとダンスの指導してくださった青木先生をはじめとする先生方に感謝の気持ちでいっぱいになったのでした。