2013年7月31日水曜日

クラウドソーシングは数学の研究に有効か

最近クラウドソーシングという言葉に興味を持っています。

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130724

基本的には、このような手法は企業の活動の中でも末梢的な
部分でうまく働くのであって、数学のような個人的な、しかも
深く考える仕事には向かない、と思うのですが、もし
例えば、数学の問題をうまく、細かな問題に分解して更に
それを、専門家でない数学者に分かる形に表現できる人がいたら
・・・と言うのは妄想でしょうか。

2013年7月29日月曜日

ポアンカレ予想前夜(4)

ポアンカレとクラインが取り扱った問題に関連した話題について
少し紹介したいと思います.このお話は2次元空間,すなわち曲面
の局所的な形に関するものです.2次元空間というのは例えばこの
ボールの表面,数学の世界では曲面といいますが,のようどこを
とっても2次元的な広がりを持った空間のことです.曲面の例と
しては球面のほかこのようのドーナッツ面,数学者はトーラスと
呼んでいますので,ここでもそれに従ってトーラスと呼ぶことに
します.またこのような二人乗りの浮き袋,これは種数2の曲面
と呼ばれます,も曲面の1つです.

まずこの球面について考えて見ましょう.この球面の上ではどの点
をとってもその近くの様子は全く同じになっています.(もちろん
球面でもわざと形をゆがめてやると対象性はなくなってしまいます.)
つまりこの形には非常に高い対象性があるといえますこれに対して
このトーラスはこのようなどこをとってもおなじみ見えるような形
にはなっていません.例えばこのあたりの点とこのあたりの点では
その近くでの曲がり方が本質的に異なっています.このようにこの
形では場所によってその近くの様子は変わってしまいます.では
トーラスはその上のすべての点の近くの様子が全く同じになって
しまうような形にすることは出来ないのでしょうか?

この問題を考える準備としてまずトーラスをはさみで切り開く事
を考えましょう.トーラスをまずこの線で切り開くとこのような
円柱面になります.さらにこの円柱面をこの線にそって切り開く
とこのような正方形がでてきます.つまりトーラスはこの正方形
のこの辺とこの辺をこのように張り合わせてできるということが
わかります.ところでこの正方形はこのように机の上においてやる
とぴたっと平面の上に乗っています.さてこのように机の上においた
正方形を見る限りその中の,つまり辺や頂点以外の,どの点をとって
もその点の近くの様子は全く同じに見えます.ではこの辺のところで
はどうでしょうか?これはこの図形でみるとふちですが,ものとトー
ラスの上ではこの辺とこのようにつながっていてやはり,その近くは
平面であることがわかります.ではこの頂点の近くではどうでしょう
か?この近くはこのようにこのあたりとこのあたりとこのあたりが
このようにつながってやはりその近くでは平面になっていることが
わかります.このようにしてトーラスの上にも球面と同じように
すべての点の近くが同じように見える形が入れられることがわかり
ます.(ただしこの形は球面のように私たちが三次元空間の中でみる
ことはできなきことが知られています.)

2013年7月28日日曜日

松本京大総長国立大学協会会長就任

国立大学協会(国大協)の役員の改選が行われ、新会長に、
附属卒業生でもある、松本紘京大総長が選出されました。
協会のトップページ

http://www.janu.jp/

には新会長からのメッセージの動画が置かれています。
新しい体質への改革を迫られているすべての国立大学の
とりまとめ役として、どのような手腕を振るわれるのか、
注目したいと思います。

2013年7月19日金曜日

ポアンカレ予想前夜(3)

当時のフランスの教育の中心ははナポレオンの導入した「グランゼコール」
と呼ばれるエリート校でした.グランゼコールは現在でもフランスのトップ
クラスのエリートを輩出しています.ポアンカレは1873年に理工系の名門
エコール・ポリテクニークに入学し,1875年には鉱山学を専門とする
グランゼコールのひとつエコール・デ・ミーヌに入学しました.卒業後は鉱山
技術者としての仕事をこなすかたわらシャルル・エルミートの下で博士論文
を書き上げています.1879年にはカーン大学で助教授の職についています.
(1878年フランス科学アカデミーが数学のコンクールを開催しましたが,)
当時ラザルス・フックスの手がけていた微分方程式の解との関連で生じるある
種の対象性を持った複素関数の研究に没頭しており,それに類似した関数が
存在するのかどうかを考えていました.このときの発見の様子をポアンカレは
エッセイ「科学と方法」の中で詳しく記述しています.

ここで得られた結果をポアンカレは1881年に発表します.その直後クラインは
この論文注目します.クラインは1881年6月にポアンカレ宛にこれらの結果に関
しては自分も既に気がついていたとの内容の手紙を送っています.これがきっかけ
となり二人の間で1年余り手紙のやり取りが続きます.表面的には紳士的なやり取
りでしたが中身は数学の優先権に関する熾烈な内容であり,最後は喧嘩別れの形
で終わっています.二人はお互いへの対抗意識から研究にのめりこんでいきますが
これはクラインにとっては大きなストレスとなります.1882の秋には彼はとうとう
健康を害して,重いうつ病にかかってしまいます.うつ状態が1984年まで続きそれ
から回復した後も数学に関してはその輝きを取り戻すことはありませんでした.
彼自身は「理論数学における私の本当に生産的な仕事は1882年に終わった」と
書いています.

2013年7月9日火曜日

ポアンカレ予想前夜(2)

さてそのようなドイツの数学の発展を支えた数学者の一人にフェリックス・
クライン(1849〜1925)という人がいます.裏表の区別をつけることの出来
ない「クラインの壷」と呼ばれる曲面がありますが,このクラインのこと
です.クラインは1949年プロイセン政府の首長秘書の子どもとして生まれ
ました.彼は23歳の時にエルランゲン大学の正教授に就任したことを始めと
してミュンヘン大学(1875年),ライプツィヒ大学(1880年)を経て1886年
に名門ゲッティンゲン大学で教鞭を取っています.数学者としても優秀でし
たが,彼は有力な縁故に恵まれ,社交性にも富んでいて数学界の発展のため
にも大きな役割を果しました.しかしやがてこのクラインの輝かしい人生に
ポアンカレが暗い影を落とすことになります.


アンリ・ポアンカレ(1854〜1912)は1854年フランスのナンシーに生まれ
ます.ポアンカレの父レオンはナンシー大学の医学部の医者でした.尚,
レオンの弟アントワンは技術系公務員として数々の要職を努めました.また
アントワンの息子のレイモンド・ポアンカレはフランス共和国の大統領に
なっています.このような立派な家柄に生まれたポアンカレでしたが少年時代
はおとなしくぼんやりしていることが多く回りの人たちはどのように扱って
よいのか困っていたようです.非常に強い近眼で,また大変不器用で,左右い
ずれの手で書いても同じくらいに字が下手で,図工や体育の成績は悲惨な
ものだったそうです.ただ図工や体育を除けば学校の成績は秀でていたと
いうことです.特に彼は授業中はノートもとらずぼんやりと物思いにふけって
いる様子であったけれど,記憶力が抜群で何年も前に読んだ本の一節が本棚
のどこにある本の何ページに書いてあるのか思い出すことが出来ました.彼の
この記憶力は死ぬまでおとろえることが無かったということです.

2013年7月5日金曜日

ポアンカレ予想前夜

ポアンカレ予想という言葉をはじめて聞くという方もこの中に
はおられるかもしれませんがそれは全然構いませんので気にし
ないでください.このお話の中で説明してゆきたいと思います
ので.

ポアンカレ予想に関するお話をするにあたって,歴史的にみて
どの時点からお話を始めるのが良いか,いろいろ考えたのです
が,時間的な制約もあって19世紀半ばからお話をはじめること
にしました.ここではヨーロッパでも特にフランスとドイツを
中心にお話を進めたいと思います.さて19世紀半ばといえば日本
では江戸時代末期と言うことになりますが,当時のヨーロッパは,
経済的にはいわゆる産業革命が本格化し各国で多くの富が蓄え
られていました.


ここで少し当時の学問をとりまく状況について説明しておきたい
のですが,18世紀の頃は大学は研究をする場所ではなく,先端的
な学問の研究は主に地方の貴族が援助する国立アカデミーあるいは
地方のアカデミーによって行なわれていました.実際のところヨーロ
ッパの大半の地域ではこのような援助はほとんど行なわれておらず
このようなところは非常に限られていました.18世紀のドイツでは
プロイセンアカデミーが学問の中心で,フランスではパリに研究
アカデミーが集中していました.ただし当時のドイツはまだ多くの
小国家が乱立した状態で,学問的にもイギリスやフランスに比べて
ずっと遅れた状態でした.1806年ナポレオン率いるフランス帝国軍
がイエナの戦いでプロイセン王国軍を破ったことで,ドイツの分裂
状態は固定化されこのようなドイツの後進的な状況はずっと続くか
と思われていました.

しかし面白いことにこのような小国家間の競争は,結果的に各地の
大学の間での優秀性を競争する環境を形作ることのなったのです.
また1806年の敗戦はドイツ連邦諸国の中に自己省察の機運を高め
る役目を果しました.例えば当時プロイセンの文部大臣を務めた
ヴィルヘルム・フォン・フンボルトはあらゆる社会階級の人々に
本格的な教育を施すことを目的とする教育システムの確立を先導
しました.1810年には世界一の大学になる事を目的としてベルリン
大学が創設されています.この他にもドイツの数学界の発展に大きな
貢献をした人材としてプロイセンの公務員アウグスト・クレレが
います.クレレ自信は土木技師でしたが,数学が好きで,現在も
刊行されている数学の雑誌「ジャーナル・フュー・ライネ・ウント・
アンゲヴァンテ・マテマティーク(通称:クレレ・ジャーナル)」
を創刊しこの雑誌を通して多くの若い数学を援助しました.このよう
な人々の努力により,ドイツの数学のレベルは急激に上がってゆき
ます.19世紀半ばまでに多くの研究大学が現れ,リーマン,
ワイエルシュトラス,クンマー,クロネッカー,ヤコビといった
一流の数学者が活躍しドイツの大学の科学と数学は世界のトップ
レベルに達します.