2013年12月15日日曜日

暗号について:NHK「生かされなかった極秘情報」に関して(3)

私自身は、この原爆投下にかかわる話を2005年に出版
された「暗号辞典」という本で知ることができたのですが、
それまで「広島への原爆投下に関して、日本はあらかじめ
知っていることはほとんどなかった」と思っていた私には
かなり衝撃的な事実でした。
ところで、NHKで放送された番組の中では、そこでさらに
あたらしい事実を知ることが出来ました。じつは日本軍は
広島に原爆が投下された後、8月9日にも600番代のコール
サインをもつB29の部隊が日本に接近していることを特集情報部
は観測しておりそのことを軍部に伝えていたのです。

ところでこの時の日本の指導部の状況ですが、この前日の
8月8日ソ連は日本に宣戦布告、8月9日零時をもって攻撃
が開始されており、8月9日10時30分から皇居で
最高戦争指導者会議が開催されていましたが、原爆の
再度の投下の関しては

「アメリカに続けて原爆を準備するだけの力はないだろう」

という、楽観的とも言える、意見により具体的な対応は
行われなかったということです。そのような議論のはなか
原爆ファットマンを搭載したB29ボックスカーは投下目的地
小倉市(北九州市)に到達しましたが、天候不良で視界が悪く
目標を長崎に変更、11時過ぎに長崎上空で投下された爆弾は
11時2分に長崎上空で炸裂したのでした。

この間、長崎にはなんの情報も送られていませんでした。
もしこの時長崎に空襲警報が出ていれば多くの人命が失われずに
済んだことでしょう。この番組では

「情報をちゃんと分析せず、かってな論理で広島、長崎への原爆
投下を見逃した軍部はけしからん」

といった論調で最後を締めくくっていましたが、私にはこの結論
はあまりにステレオタイプであると思えます。戦争というのは、
もちろん起きてはいけないものですが、一方で過去の戦争の記録
は私たちに数多くの教訓を残してくれています。このエピソード
がもつ意味はもっともっと大きいのではないでしょうか。

暗号辞典


2013年12月10日火曜日

暗号について:NHK「生かされなかった極秘情報」に関して(2)

さて1945年の日本に話を戻します。当時日本軍は東京にある
諜報基地でアメリカ軍の発する無線通信を24時間聞き取り、
その特徴を見つけて爆撃地を予想していました。例えば、爆撃に
あたっては爆弾を積んだB29がいきなりやってくるというわけ
ではなく、まずは一機のB29がやってきて爆撃予定地を通過して
短い無線を発するということがわかります。そこでこのB29は
爆撃予定地の天候をまず調べてその上方を後続の部隊におくってい
る、という事が想像できる訳です。さてそのような情報を集めて
いるうちにアメリカ軍の使っている無線のコールサイン(無線の
本文は暗号化されていましたが、無線の最初にコールサインという
各飛行機に固有の符号が入っていたのです)がVから始まりそれに
3桁の数字例えば567が続いた形をしていることに気が付きます。
さらに情報を集めると400番代の数字はサイパン島の部隊のもの、
500番台の数字はグアム、700番代はテニアンという島の部隊
のもの、ということが分かってきました。またこの番号か各爆撃機
に割り当てられているので、この番号を丹念に拾うことによりその
部隊の規模、失った飛行機の数なども知ることができたと言います。

さてこのように情報を集めていた諜報局ですが、やがてそれまで
とは異なる新しい部隊が現れたことに気が付きます。その部隊は
ハワイのホノルルを1945年6月に出発、その時にアメリカの
首都ワシントンに向けてかなり長文の無線を送っていたのです。
このようなことは爆撃機の行動としてはかなり異例のことでした。
またそのコールサインは600番代でこれまでの部隊のどれとも
異なるものでした。しかもこの部隊は10機あまりの爆撃機しか
持たない非常に小さいものでした。この奇妙な部隊の出現に諜報局
に緊張が走りました。

やがてこの部隊はテニアンに当着、7月に入ると日本近海まできて
引き返すという行動を繰り返すようになります。それはまるで何か
の訓練をしているようでした。そして1945年8月6日午前3時
B29がテニアン島を出発、その時にワシントンに向けて短い無電
を送ったことが日本軍の諜報局によって観察されています。この
B29の部隊は硫黄島を通過するときに「ワレモクテキチニチカ
ズケリ」という無線電文を発していることも日本軍は掴んでしました
(なお、このB29の部隊の話はNHK特集で放映(「生かされなかっ
た極秘情報」)されていたのでご覧になった方もしれません。この
番組では私が知らなかった事実も色々紹介されていて非常に面白
かったです。例えばこの無線を実際に捉えたのは陸軍少佐の堀栄三
という方で、もうこの人は故人ですが、その人が生前にかたった
テープが実家の奈良県五條市に残っているという話などこの番組で
初めて知ることができました。)。この600番代のコールサイン
をもつB29の部隊はやがて、四国を通過、そしてこの部隊の中の
一機が午後7時過ぎに広島上空に現れ、短い電文を発します。それ
に続いて午前8時過ぎに2機のB29が広島上空に現れ、8時16分
に一発の爆弾を投下します。B29の名前はエノラ・ゲイ、そして投下
された爆弾は世界で初めて実戦で使用された原子爆弾だったのです。

2013年12月8日日曜日

暗号について:NHK「生かされなかった極秘情報」に関して

暗号に興味を持って色々と調べています。これがなかなか面白い
のですが特に太平洋戦争時の日本における暗号の話は色々と失敗
の宝庫で皮肉ではなく学ぶところが多かったです。その中でも
特に印象に残ったお話をまずは紹介したいと思います。

1941年12月8日日本軍の真珠湾奇襲(アメリカから見れば
「不意打ち」)によって、幕をあけた太平洋戦争ですが、当初、
日本軍は快進撃を続けていました。しかし1941年のミッドウェイ
海戦を境に次第に勢いを失います。この背景には情報戦における
日本の絶対的な劣勢、というものがありました。具体的に言うと、
アメリカは日本軍が使っている暗号を解読していたのに対して
日本軍はアメリカの使っていた暗号を解読することが出来なかった
ため様々な戦いにおいて実際に戦う前に絶対的に不利な状況に
あったということです。

世界地図を思い浮かべていただきたいのですが、日本をずっと下
(つまり南ですね)にだいたいフィリッピンと同じくらいの緯度
のあたりまで下がってゆくとマリアナ諸島とう島々があります。
マリアナ諸島というと皆さんにはピンと来ないかもしれませんが、
その中にグアム、サイパンという島があるというと少しは身近に
感じられるのでは無いでしょうか。戦争当初日本が確保していた
このマリアナ諸島も1944年にはアメリカに確保されます。
このことはこの戦争において重要な意味がありました。というのは
当時のアメリカの最新鋭の爆撃機B29は非常に長い航続距離を
もっておりマリアナ諸島をから離陸すれば日本の主要な都市を
爆撃することができたのです。1945年にはこのマリアナ諸島に
あるサイパン、グアム、テニアンの基地から飛び立った爆撃機
B29によって東京、大阪を初めとする大都市は空襲を受けて
いました。現在でもそうですが、軍事的な無線はすべて暗号化
されており、これらの爆撃機への指示の無線から爆撃地点などを
知ることは不可能でした。しかしそのような難しい状況にあって
日本軍は通信解析という手法によってある程度の情報を集めて
いました。

この通信解析とうのはどういう方法かと言いますと、例えばいま
現在の話ですがあるテロリストをマークしていたとします。
そのテロリストは仲間との通信は全て編みが暗号化しているので
その中身は知ることは出来ない。そこでとにかくテロリストの
仲間とのやりとりの頻度や長さといったものを観察します。
これは暗号化された文章でも知ることが可能です。とこのように
観察している間に、ある時期に仲間とのやり取りの量が急激に
増えて、さらにある時期を境にやりとりがぱったりと止まった、
とこういう状況があったとします。これは、やりとりが頻繁に
繰り返された時期にテロの計画の最終打ち合わせをしていた、
そしてやりとりが止まった時期からテロ計画が実行段階に入った、
と想像することが出来ます。このように通信の内容がわからなく
ても、ある程度の情報をそこから知ることができます。
これが通信解析という手法です。

2013年9月21日土曜日

タルキオ・プロビーニ(4)

1963年世界グランプリ最終戦鈴鹿に,ホンダ,ヤマハは新型エンジンを投入,特に4気筒のホンダは50馬力までパワーアップされていた.エンジンを含めて万全の体制でレースを迎えた日本勢に対してモリーニ・チームはこの年に初めて行われた鈴鹿グランプリに遠征するだけの資金がなかった(鈴鹿サーキットはこの前年に完成,現在(2013年)50歳ということになる).そのためプロビーニが個人で義援金を集め,なんとか 日本まで来ることができたが,彼は途中の飛行機の中で中耳炎を発症,体調は万全とは言えなかった.

本番レースでモリーニ・チームには高低差のある鈴鹿サーキットに合わせたセッティングをするだけの時間はなかった.そもそも名手プロビーニをしてもこれだけのパワー差は如何ともしがたかった.レースは序盤からレッドマンのホンダと,伊藤史郎とフィル・リードが乗る2台のヤマハの三つ巴の争いとなる.プロビーニは,この三台のマシンからしだいに引き離されてゆく.トップグループの三台は周回ごとに先頭が入れ替わるという激しいレースを展開,最終的にはレッドマンが0.1秒差で伊藤を抑えて優勝,プロビーニは1分遅れの45位以下は更に引き離されていた)に終わった.

****************
さてその後の話ですが,モリーニ・チームは63年をもってグランプリから撤退,この時プロビーニにはヤマハからオファーがあったのですが,「胸の内の愛国心」にしたがって,彼は勝てる可能性の少ないイタリアのベネリ・チームに移籍します.そして1966年に,マン島TTレースで転倒,大怪我をおってその後は車椅子が必要な体になってしまいます.
こうしてライダーとしての生活には終止符をうつことになったのですが,2輪への情熱は捨てがたく,バイクのプラモデルの会社「プロター」を設立します.この会社は彼の愛車モリーニ250を手始めに230種類ほどのプラモデルを世に送り出します(プロターは2003年にイタレリに吸収される).下に上げた【会報】によるとプロターの製品は

・(普通のメーカーが出さないような)希少モデルが多く高価
・どこで売っているかわからない
・部品が多くて製作が大変
・しかし出来上がると雰囲気が素晴らしい
とのこと.

【会報】
(プロビーニの記事は二つあります.)

2005年に突然の心臓発作によりプロビーニは亡くなりました.
「負けるとわかっていても意地を通す」と言う態度は現在では流行らなくなったけれど,それも悪く無い...と,などということを感じつつこの話題を終わりたいと思います

プロターの製品がどのようなモデルなのか気になる人は


をご覧ください.正直私には完成させることは絶対できないと思います.
あと,モリーニ250を含むプロターの作品を



で見ることができます.(なお,レッドマンのホンダと前後してコーナリングをしているプロビーニの写真もここにあります.)

2013年9月20日金曜日

タルキオ・プロビーニ(3)


地元で開催されるイタリア・グランプリに備え,またシーズン中も毎レース進化を続けるホンダのマシンに対抗するために,モリーニ・チームはエンジンを限界までチューンアップすることにした.

「全周回数二十二の百二十六.五キロさえフル・スロットルで飛ばせたら後はぶっ壊れても構わない・・・モデナ・サーキットの近くの農家を借り,納屋をガレージにしたモリーニ・チームは,毎日試作とテストに明け暮れた.・・・そんな頃,やっと四十馬力から四十四馬力のパワーを一時間にわたって保つことが出来るエンジンが出来た.」
(「汚れた英雄」より)

「モリーニが高速コースモデナで勝つことは不可能」と油断していたレッドマンは改良エンジンで戦ったプロビーニに破れた.勢いに乗って,アルゼンチングランプリでもプロビーニが優勝,レッドマンが2位となり,ついに選手権の有効得点はプロビーニ,レッドマンは同点となった.

こうして1963年の2輪世界選手権は最終戦鈴鹿グランプリを迎えたのである.

2013年9月19日木曜日

タルキオ・プロビーニ(2)


当時のモリーニマシンは単気筒の37馬力,対するホンダのマシンは4気筒46馬力のエンジンを搭載していた.モリーニマシンは,ほぼ車体の幅程のエンジンが非常にコンパクトに収められており,特にエンジン回りはたまご型のカウルで覆われていて,力強さと言うよりは可愛らしさを感じさせるものがある.

当時のホンダのエースであるジム・レッドマンと前後してコーナリングをしている写真があるが,レッドマンが膝を伸ばして,コーナで深くバンクした車体からぶら下がるような姿勢で強引にバイクをコントロールしているのに対して,少しでも空気抵抗を減らしてスピードを稼ごうと,プロビーニは完全にカウルの中にもぐりこんでそのまま車体を倒してコーナリングをしている.ヘルメットの抵抗まで減らすためか,顔はほとんど真下を向いている(なお,モリーニの燃料タンクにはプロビーニの顎に合わせたくぼみが付いている.しかしこれでコーナリングのポイントが見えているのだろうか).まさしく人車一体という言葉がふさわしい.

37馬力エンジン(「汚れた英雄」によると実際には41馬力出せた)を搭載したモリーニ250マシンでは4気筒DOHC46馬力のホンダとは勝負にならないように見えるが,モリーニマシンはホンダより30Kg 軽量であり重量対馬力比はホンダとあまり差がなかった.またコンパクトな車体に積まれた軽量エンジンのおかげで,優れた操縦性を持っていた.

これらのアドバンテージを活かしてプロビーニは1963年世界選手権第1戦スペイングランプリ,第2戦ドイツグランプリに勝利する(ホンダのレッドマンはそれぞれ2位,3位).続く第3戦イモラグランプリ,第4戦オランダグランプリはレッドマンの勝利(プロビーニはそれぞれ,無得点,3位,なおこの2戦でヤマハの伊藤史郎が2位に入る),第5ベルギーグランプリでは伊藤が優勝,プロビーニ3位,レッドマン無得点,6北アイルランドグランプリはレッドマン優勝,プロビーニ2位,第7戦東ドイツグランプリはレッドマン3位,プロビーニは不参加.この時点で選手権のポイントはレッドマンがプロビーニをわずかに上回っていた,

残るのはイタリア,アルゼンチン,そして最終戦日本の3レースであった.