2013年9月21日土曜日

タルキオ・プロビーニ(4)

1963年世界グランプリ最終戦鈴鹿に,ホンダ,ヤマハは新型エンジンを投入,特に4気筒のホンダは50馬力までパワーアップされていた.エンジンを含めて万全の体制でレースを迎えた日本勢に対してモリーニ・チームはこの年に初めて行われた鈴鹿グランプリに遠征するだけの資金がなかった(鈴鹿サーキットはこの前年に完成,現在(2013年)50歳ということになる).そのためプロビーニが個人で義援金を集め,なんとか 日本まで来ることができたが,彼は途中の飛行機の中で中耳炎を発症,体調は万全とは言えなかった.

本番レースでモリーニ・チームには高低差のある鈴鹿サーキットに合わせたセッティングをするだけの時間はなかった.そもそも名手プロビーニをしてもこれだけのパワー差は如何ともしがたかった.レースは序盤からレッドマンのホンダと,伊藤史郎とフィル・リードが乗る2台のヤマハの三つ巴の争いとなる.プロビーニは,この三台のマシンからしだいに引き離されてゆく.トップグループの三台は周回ごとに先頭が入れ替わるという激しいレースを展開,最終的にはレッドマンが0.1秒差で伊藤を抑えて優勝,プロビーニは1分遅れの45位以下は更に引き離されていた)に終わった.

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さてその後の話ですが,モリーニ・チームは63年をもってグランプリから撤退,この時プロビーニにはヤマハからオファーがあったのですが,「胸の内の愛国心」にしたがって,彼は勝てる可能性の少ないイタリアのベネリ・チームに移籍します.そして1966年に,マン島TTレースで転倒,大怪我をおってその後は車椅子が必要な体になってしまいます.
こうしてライダーとしての生活には終止符をうつことになったのですが,2輪への情熱は捨てがたく,バイクのプラモデルの会社「プロター」を設立します.この会社は彼の愛車モリーニ250を手始めに230種類ほどのプラモデルを世に送り出します(プロターは2003年にイタレリに吸収される).下に上げた【会報】によるとプロターの製品は

・(普通のメーカーが出さないような)希少モデルが多く高価
・どこで売っているかわからない
・部品が多くて製作が大変
・しかし出来上がると雰囲気が素晴らしい
とのこと.

【会報】
(プロビーニの記事は二つあります.)

2005年に突然の心臓発作によりプロビーニは亡くなりました.
「負けるとわかっていても意地を通す」と言う態度は現在では流行らなくなったけれど,それも悪く無い...と,などということを感じつつこの話題を終わりたいと思います

プロターの製品がどのようなモデルなのか気になる人は


をご覧ください.正直私には完成させることは絶対できないと思います.
あと,モリーニ250を含むプロターの作品を



で見ることができます.(なお,レッドマンのホンダと前後してコーナリングをしているプロビーニの写真もここにあります.)

2013年9月20日金曜日

タルキオ・プロビーニ(3)


地元で開催されるイタリア・グランプリに備え,またシーズン中も毎レース進化を続けるホンダのマシンに対抗するために,モリーニ・チームはエンジンを限界までチューンアップすることにした.

「全周回数二十二の百二十六.五キロさえフル・スロットルで飛ばせたら後はぶっ壊れても構わない・・・モデナ・サーキットの近くの農家を借り,納屋をガレージにしたモリーニ・チームは,毎日試作とテストに明け暮れた.・・・そんな頃,やっと四十馬力から四十四馬力のパワーを一時間にわたって保つことが出来るエンジンが出来た.」
(「汚れた英雄」より)

「モリーニが高速コースモデナで勝つことは不可能」と油断していたレッドマンは改良エンジンで戦ったプロビーニに破れた.勢いに乗って,アルゼンチングランプリでもプロビーニが優勝,レッドマンが2位となり,ついに選手権の有効得点はプロビーニ,レッドマンは同点となった.

こうして1963年の2輪世界選手権は最終戦鈴鹿グランプリを迎えたのである.

2013年9月19日木曜日

タルキオ・プロビーニ(2)


当時のモリーニマシンは単気筒の37馬力,対するホンダのマシンは4気筒46馬力のエンジンを搭載していた.モリーニマシンは,ほぼ車体の幅程のエンジンが非常にコンパクトに収められており,特にエンジン回りはたまご型のカウルで覆われていて,力強さと言うよりは可愛らしさを感じさせるものがある.

当時のホンダのエースであるジム・レッドマンと前後してコーナリングをしている写真があるが,レッドマンが膝を伸ばして,コーナで深くバンクした車体からぶら下がるような姿勢で強引にバイクをコントロールしているのに対して,少しでも空気抵抗を減らしてスピードを稼ごうと,プロビーニは完全にカウルの中にもぐりこんでそのまま車体を倒してコーナリングをしている.ヘルメットの抵抗まで減らすためか,顔はほとんど真下を向いている(なお,モリーニの燃料タンクにはプロビーニの顎に合わせたくぼみが付いている.しかしこれでコーナリングのポイントが見えているのだろうか).まさしく人車一体という言葉がふさわしい.

37馬力エンジン(「汚れた英雄」によると実際には41馬力出せた)を搭載したモリーニ250マシンでは4気筒DOHC46馬力のホンダとは勝負にならないように見えるが,モリーニマシンはホンダより30Kg 軽量であり重量対馬力比はホンダとあまり差がなかった.またコンパクトな車体に積まれた軽量エンジンのおかげで,優れた操縦性を持っていた.

これらのアドバンテージを活かしてプロビーニは1963年世界選手権第1戦スペイングランプリ,第2戦ドイツグランプリに勝利する(ホンダのレッドマンはそれぞれ2位,3位).続く第3戦イモラグランプリ,第4戦オランダグランプリはレッドマンの勝利(プロビーニはそれぞれ,無得点,3位,なおこの2戦でヤマハの伊藤史郎が2位に入る),第5ベルギーグランプリでは伊藤が優勝,プロビーニ3位,レッドマン無得点,6北アイルランドグランプリはレッドマン優勝,プロビーニ2位,第7戦東ドイツグランプリはレッドマン3位,プロビーニは不参加.この時点で選手権のポイントはレッドマンがプロビーニをわずかに上回っていた,

残るのはイタリア,アルゼンチン,そして最終戦日本の3レースであった.