2019年9月23日月曜日

ホモ・デウス第10章への補遺(4)


バリー・メーザーは整数論の世界的な研究者です。彼はアンドリュー・ワイルズによるフェルマーの最終定理の証明に至る一連の道筋でも重要な役割を果たしていますがその様子が「フェルマーの最終定理 (第V ミッシング・リンク)」に記述されています。以下はその部分の要約です。

1984年ゲルハルト・フライは谷山-志村予想と呼ばれる予想が解ければ、フェルマーの最終定理(当時は「予想」)が解ける、という結果につながる事実を発表しました。しかし残念ながら彼の議論には欠陥があることがすぐに明らかになりました。多くの数学者がこの主張の正しい証明を与えようとしましたが、すぐにはうまくいきませんでした。1986年に バークレーで開催された国際数学者会議の折にケン・リベットとメーザーはカフェ・ストラーダ(個人的な思い出ですが、私も1983年~84年にバークレーに留学していたときによくここで仕事をしていました)で雑談中、この話題に関する自分の研究について語っていたリベットにメーザーがある事実を注意し、これが決定打となって「谷山-志村予想を解決すればフェルマーの最終定理が証明できる」ことが証明されたのです。そして最終的にワイルズによってこの谷山-志村予想が証明されその結果としてフェルマーの最終定理が証明されたのです。

さてメーザーは専門に関する学術論文にほか様々な数学に関するエッセイを公開しています。「黄色いチューリップの数式」という本はそのような彼の「業績」の一つで、数学の歴史をたどりながら「複素数」というものをどう捉えるのか、「黄色いチューリップ」という言葉を含む詩を参照しながら、紹介しています。その中に子供に負の数を教える場面を描いた次のような記載があります:


(「黄色いチューリップの数式」72頁)

さて、この子の想像力の中で何が変わったのでしょうか?メーザーは明確な答えを与えてはくれていません。 そこで私なりの解答を紹介することにしましょう:

この子にとって、それまで数字とは「ひとつ、ふたつ、・・・」といったものの個数を表すものであったが、同じ数字が実は「ものの長さ」も表すことができる、と気がついたことにより、それが直線上の位置として捉えるべきもの、という考えが自然に浮かんだのです。その時「この直線はゼロのところで終わるのは不自然だ」という考えを、無自覚的に受け入れ、その瞬間「引き算68の結果」のあるべき場所を悟った、・・・

という説明はいかがでしょうか。説得力はあるでしょうか。

ついでに、この「この直線はゼロのところで終わるのは不自然だ」という文章を「この直線がゼロのところで終わるのは可哀想だ」という文章に置き換えてみることに抵抗はありますでしょうか。私は、この「可哀想だ」という感覚が前回のポストで紹介した岡潔の「情緒」なのではないかと思っています。

フェルマーの最終定理
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%AE%9A%E7%90%86-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3-%E3%82%B7%E3%83%B3/dp/4102159711

黄色いチューリップの数式
https://www.amazon.co.jp/%E9%BB%84%E8%89%B2%E3%81%84%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%81%AE%E6%95%B0%E5%BC%8F%E2%80%95%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88-15%E3%82%92%E3%82%A4%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8-%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%BC-%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC/dp/4048981595

2019年9月18日水曜日

ホモ・デウス第10章への補遺(3)


哲学者のアンディ・クラークは彼の「拡張された心」に関する仕事は

人間の「認知ー非認知」の区別への疑問として、

なされた、と述べています(「現れる存在」380381頁)。例えば人間の「認知」(あるいは「記憶」etc.)というのは身体や環境といった外部世界に漏れ出しており、そのことにより

我々の脳の中だけで実行するには非常に複雑な処理のためのストレスを軽減

しています(このことをクラークは「コントロールとは複雑系をそっと一突きすることだ・・・」と表現しています。「現れる存在」383頁)。「拡張された心」に並行する考え方として「拡張した身体」という考え方があります。例えば猿に手の届かないところに置かれた食べ物を熊手を使って手元に引寄させる、という訓練をすると、やがて脳内のニューラルネットワークの繋がりに変化がおきてこの熊手が脳地図に組み込まれるのだそうです。その結果この猿にとって

「熊手は身体化された」、

言い換えるとこの猿は

「拡張された身体を獲得した」

と言えるのです(「野生の知性」289頁参照)。これと同じように人間の心も身体や道具、環境を通して拡張される、これが「拡張された心」の基本となる考え方です。森田真生氏はこのような「心の拡張」は身体・道具・環境のみならず「非記号的な思考過程」によってもなされると主張、更に、「数学的思考」というのはこのようにして拡張された心の一種なのだと述べています(「数学する身体」第四章 出難の道)。(なお、森田氏はこの「非記号的な思考過程」の一例として岡潔が繰り返し使った「情緒」を挙げているように思われます(「数学する身体」第四章 「情」と「情緒」))

拡張された心には大きな可能性があります。数学の理論はそのような成果の一つですが、このように拡張された心が生み出すことのできる様々な精神世界が前回のポストの中で紹介した高橋 和巳氏の描いた世界

・・・彼女は社会的存在の外側に出てしまった.同心円の構造から見ると,内側二つからはみ出て,宇宙に行ってしまったのだ.そこでは感覚も欲求も制限がゆるくなる.心の抑圧がなくなる場所である.