2019年7月10日水曜日

ホモ・デウス第10章への補遺(2)



「消えたい虐待された人の生き方から知る心の幸せ」



で高橋 和巳氏は、虐待を受けていた子供がその成長の過程でどのように苦しみ、そしてそれをどの様に克服していったのかいくつかの事例を紹介しています。

虐待をうけて育った子どもたちも,やがて成長し社会生活を営むことになります.結婚をして親となる場合もあります.しかし虐待によって受けた心の傷は彼らに「ここは自分のいる世界ではない」という気持ちをもたせ,多くの場合「生きづらさ」に苦しむことになるのです.

5
(5)子どもから教えてもらう愛情
・・・
「子どもがいらなくなった」と訴える母親
・・・
その女性は電話口でいきなり,
「子どもがいらなくなった.引き取ってほしい」
と訴えた.
・・・
赤ちゃんがママの方に近付こうとすると,野中さんは一瞬,怖いものを見るような顔をして無意識に後ずさりした.
・・・「ああ,このママは本当に赤ちゃんが怖いんだ.彼女は被虐だ・・・・・・」
・・・無邪気に,何の疑いもなく愛を求めて近づいてくる子どもがいると,被虐ママの強固な抑圧に危機的な揺れが生じる.

高橋氏は,沢山のその様な事例にふれるうちに,虐待を受けた人達は「普通の人達」とは違った世界を生きていることに気づきました.彼はそれを次の様に表現しています.

世界の構造は,二つの異なる世界に更に宇宙を加えた三つの要素からなる.これらは三つの円を重ねた同心円になっている.
・・・
内側の二つの世界が,心の有りようによって異なる二つの世界である.
①一番内側の普通の世界に,私たちは生きている.
②その周りの辺縁の世界に,異邦人(被虐待者)が生きている.
この二つが地上にある二つの世界だ.
③その外側には広大な宇宙が広がる.

この同心円は先日のポスト


で紹介したハラリの同心円を連想させます.ハラリは「心のスペクトル」を図式化したものとして「人間の精神状態の円」の外側に「動物の精神状態の円」を配置しています.この図の中で「辺縁の世界」の円は,人間の精神状態の境界近くに位置していると思うのは悪い直観では無いように思います.

さて,高橋氏はこのような生きづらさを抱えた被虐待者がどのようにそれを克服していったのか,ということも紹介しています.

・・・愛を受け取らずに,義務を果たす,それが彼女の子育てだった.

そんな野中さんに高橋氏は「子どもに自分のことをママと呼ばせなさい」とアドバイスします.それからしばらくして野中さんに変化が現れます.

・・・彼女は「ママ」という言葉の意味を正確に理解している.だからその言葉を使ってこなかった.その言葉を使えるようになったということは,世間と共通のママだと自分で認めたことである.

・・・時間が逆転する.心は自由に時間をさかのぼり,この世に生まれてからずっと期待していた安心,愛情と称賛を手に入れる.過去に虐待された事実は消えないが,その意味は変わる.原因は動かないが,結果が変わる.心の事実を知ることによって過去が変わるのだ.

野中さんは子育てを通して辺縁の世界から,普通の世界に入る(彼女はずっと辺縁の世界に生きてきたわけですから,普通の世界に「帰る」というのは正確ではないでしょう)事ができたのです.

さてこのような被虐者とのつながりを通して高橋氏の興味は次第に辺縁の世界の内部に入り込んでいったように見えます.

第五章 心はさらに広い世界へ

・・・一方,異邦人が生きてきたのは「辺縁の世界」である.そこでは社会的存在は曖昧で,彼らは革新を得られず,いつも自分の存在に戸惑い,不安定に生きている.

・・・しかし,逆の言い方をすれば,辺縁の世界から見ると,みんなが信じている社会的存在がそれほどまでに絶対なのかと醒めた目で眺めているようでもある.彼らには社会的存在の限界が見えているのかもしれない.その証拠に,彼らは,時々社会的存在を前提とした文脈では理解席無い,ある意味ちぐはぐな,でも何か不思議なことを語ることがある.

・・・一方,「自殺したい」と聞いて「うん,そうだね.でも,自殺していい理由を探すの,大変でしょう」などと,しみじみと同情するとしたら,その人は異邦人かもしれない.規範を基準として自殺の良し悪しを判定しないのだ.

そして高橋氏はその心のあり方に肯定的な意味を見出すのです.

私達の心に広さは,共有する感情と規範の範囲である.しかしそれが心の全てではない.
実は,心はあなたが思っているよりもずっと広く,その外側にも深いところにも広がっている.
異邦人の証言は,その広い心の可能性を見せてくれた.

そして高橋氏は辺縁の世界の外側を描き出してくれます.

・・・彼女は社会的存在の外側に出てしまった.同心円の構造から見ると,内側二つからはみ出て,宇宙に行ってしまったのだ.そこでは感覚も欲求も制限がゆるくなる.心の抑圧がなくなる場所である.
二つの同心円の外側では,生死の意味も変わるから,「死にたい」と「消えたい」がともになくなってしまう.何が残るかといえば,ただ「在る」ことだけである.

高橋氏はこの本の最後でこのような異邦人が人類の創造性において大切な役割を果たしてきたことを指摘しています.

それまでなかったような新しい境地を開いた人,それまでとは異なる視点で社会や国を論じ,危機に際して社会を救った人,そういう人たちの中に異邦人がたくさんいることに私は気づいた.

2019年7月4日木曜日

ホモ・デウス第10章への補遺


歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリはその著書「ホモ・デウス」の中で現在の科学の発達(特に生物学の発達)は人類(ホモ・サピエンス)を不老・不死といった神の領域までアップグレードする可能性を現実的なレベルまで引き上げていると指摘し,この帰結としてごく一部の神のような力を持つ人間(ホモ・デウス)がデータ至上主義を教義として大部分の人間を支配する未来を描き出し,読者にこのような未来を受け入れるのかどうかを問うています.これについてはこのブログの次のポストを参照ください.


11章からなる「ホモ・デウス」の終盤でハラリは人間が一人一人固有に持っていると信じている意識の存在が実は,非常に曖昧なものであること,更に宗教がその影響力を失いつつあることを指摘した上で,その先で人類はいかなる教義を行動規範として持つべき?という問を提出し,これに続く「第10:意識の大海」でまずその新しい”宗教”の可能性として”テクノ人間至上主義”と”データ教”という2つの可能性を上げています..この章では,ハラリはまず「心のスペクトル」の広大さについて次のように述べてます.

私達が想像している小島の住民は少なくとも,自分が,広大で神秘に満ちた海に浮かぶ,ほんのちっぽけな空間を占めているのにすぎないことを自覚している.一方私達は,ひょっとしたら際限のない,異質の精神状態の大海に浮かぶ,ちっぽけな意識の島に暮らしていることを正しく認識できずにいる.

そしてこの心のスペクトルの広大さ故,

テクノ人間至上主義が人類の次の教義になることは無いだろう

と結論づけています.

私としてはこの論理展開に不満は無いのですが,ただここで述べられている「心のスペクトルの広大さ」の意味についてもっと具体的に知りたいと感じました.ハラリは人間,動物そしてそれを含むありとあらゆる精神状態をも考えて(次図)

将来は・・・そうした大陸への航路を切り拓いてくれるかもしれない

と述べています.



個人的にはまずはこの「人間の精神状態」の境界付近の精神状態,に興味があります.その一つの例は先日のポスト


で紹介したピダハンの文化だと思います.言語学の根底に関わる特殊な言語を用いて,ハラリが言うところの「認知革命」をまだ経験していない(言い換えると,「虚構を共有する」という文化を持っていない)ピダハンは「人間の精神状態」というものの境界の一つを体現していると言えるでしょう.