2011年度、2012年度の2年間附属中等学校の校長を、そして 2021年度、2022年度、2023年度の3年間附属小学校の校長を 努めました。その時に始めたブログです。子供たちや保護者の皆様向けの情報を発信していました。これからも少しずつ更新するつもりですのでよろしくお願いします。 コメントは出来ないようにしていますが、どうかあしからず。
2012年12月29日土曜日
読書感想文集前書き
昨年度の本校の読書感想文集の前書きに寄せた文章です。
もう一年経ったのでブログで公開させていただきます。
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永く付き合える本
私は小中高を通して国語が苦手でした。「これではいけない」と、いろいろな
本を読んで国語力をつけよう、と努力はしたのですが、こういう不純な動機で
はやはり身につくことはあまり無かったようです。ただ、そんな乏しい読書体
験でも何とはなく、後々まで記憶に残る本はあるようで、特に印象に残ったの
は中島敦の「名人伝」という小品です。これは天下一の弓の名人になろうとい
う志を持った男の話です。修行を重ね、ついには師匠と互角の腕になった男は、
師匠から
「自分たちの技など、子どものあそびに等しい、と言うほどの弓の名人が深い
山の中にいる」
と聞いて居ても立ってもいられず、その名人に会いに行きます。そこで男は弓
の真髄を見せつけられ、改めてこの名人の下で修業を重ねます。やがて、修行
を終えて街に帰った男は、周りの期待にもかかわらず、いつまで経ってもその
技を見せようとはしません。それどころか・・・(結論が気になる方は、ぜひ
ご覧になってくだい。中島敦の作品は現在著作権が切れており、インターネッ
ト上の「青空文庫」等にアップロードされていますので、すぐに見ることが出
来ます。)
このお話には、はっきりとした教訓があるとか、何かの役に立つ情報がある、
ということは全くないのですが、何故か今でも時々、突然気にかかって、何十
年も前に購入した文庫本を読み返しています。不思議なことに読み返すたびに
何か新しい発見があり、うれしい気持ちにしてくれます。なお、この作品の中
でも私が特に気に入っている部分は、初めて主人公の前に初め表した名人の姿
を描写した部分です。その部分を少しだけ紹介しますね:
気負い立つ紀昌を迎えたのは、羊のような柔和な目をした、しかし酷くよぼよぼの爺さんである。年齢は百歳をも超えていよう。腰の曲っているせいもあって、白髯は歩く時も地に曳きずっている。
・・・どうです、「いいなあ」と思いませんか。
人生で「永く付き合える本」というのは、やはり良いものだ、と思いますが、このような本には、皆さんのような若い時にしか出会えないように感じています。皆さんも、それぞれ「永く付き合える本」にめぐり合えれば良いな、と思います。
気をつけるべきこと
数学でもそうですが、ある成果を苦労して作り上げた人は
その難しさや、問題の微妙な所をよく知っている。
だから、自分の後に続く若手たちが、あまり、深く考えずに
その結果を使うことがとても、気にかかるして、時としては
親切心から、その若手にアドバイスをしたくなる・・・
しかし、多くの場合、当の若手にとっては、年寄りの自慢話
くらいにしか、聞こえない・・・なんてことがあるのでは
ないでしょうか。
一方で
若手の人たちは、年寄りの作り上げた結果を、その結果
だけを見て、そして年寄りには思いもよらなかったような
使い方を見つけ出す・・・と言うこともある。
私は若者の発想を大切にすべきと思うし、少なくとも
若者が前に進むための重荷や、邪魔者にはならないように
気をつけたい、そしてもし若者の役に立ちたい、と思うなら
対等な研究者として協力関係になるようにしたい・・・
等という考えが突然頭に浮かんできました。
その難しさや、問題の微妙な所をよく知っている。
だから、自分の後に続く若手たちが、あまり、深く考えずに
その結果を使うことがとても、気にかかるして、時としては
親切心から、その若手にアドバイスをしたくなる・・・
しかし、多くの場合、当の若手にとっては、年寄りの自慢話
くらいにしか、聞こえない・・・なんてことがあるのでは
ないでしょうか。
一方で
若手の人たちは、年寄りの作り上げた結果を、その結果
だけを見て、そして年寄りには思いもよらなかったような
使い方を見つけ出す・・・と言うこともある。
私は若者の発想を大切にすべきと思うし、少なくとも
若者が前に進むための重荷や、邪魔者にはならないように
気をつけたい、そしてもし若者の役に立ちたい、と思うなら
対等な研究者として協力関係になるようにしたい・・・
等という考えが突然頭に浮かんできました。
2012年12月27日木曜日
数学への応援歌(森元氏の投稿)
森元予想
http://fuzokukouchou.blogspot.jp/2012/05/blog-post_08.html
を提案された森元氏が研究者のためのメーリングリストに次のような
投稿をされています。ご本人の許可が得られましたのでここに転載
させていただきます。
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風向き
http://fuzokukouchou.blogspot.jp/2012/05/blog-post_08.html
を提案された森元氏が研究者のためのメーリングリストに次のような
投稿をされています。ご本人の許可が得られましたのでここに転載
させていただきます。
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風向き
結び目理論関係者の皆様
今週、早稲田大学での「結び目の数学V」に出席しました。 集会は若い学生さんや研究者で賑わっており、とても盛況でした。 その懇親会における冒頭の挨拶で、河内明夫先生が、「 結び目理論は様々な数学を巻き込み、自然科学とも深く関わり、 今後100年は発展し続けるでしょう」 と力強く宣言されておりました。もちろん、 若い人々を勇気づけ激励する意味もありますが、ここ最近、 数学を取り巻く環境や風向きが、 少しずつ良くなってきたと感じております。
というのは、1990年代後半から10年余り、 情報科学の急激な発達と、学問よりも実学重視の風潮を受け、 いくつかの大学で数学科が縮小や廃止され、 教員のポジションも削減されました。そして数学は「 忘れられた科学」という名で呼ばれるなど、 若い人々が数学に夢を持てない状況が広がっていました。 私はそのような状況を表した文章を、「数学の本丸と外堀」 と題して、メーリングリストに投稿しました。つまり、 中堅大学という外堀が埋められ、数学ができるのは東大・ 京大を中心とする本丸とその周辺のみとなり、 いずれ孤立し発展が妨げられるというシナリオです。
当時、ある有名な先生は「 数学はいずれ文化庁に保護されなければ存続できなくなるかもしれ ない」などとぼやいておられ、私は、 奈良女子大学の小林毅さんと「 今は逆風の中打って出るときではなく、 火を消さないように守るときだ」などと言っておりました。 ところが、 各企業がコンピュータを使える人材を渇望した時代が終わり、 誰でも使えるのが当たり前という時代になると、 より高いものが求められるようになり、 物事を根本から考えることができる人材が求められるようになりま した。それは汎用性のある人材であり、まさに、 数学の考え方です。そして、 このような要求が企業の方から出てきていることが、 数学への追い風となります。
数学を学んだ人が、教員や研究者だけでなく、技術やビジネス、 福祉、さらには政治でも活躍することにより、 社会全体が数学を学んだ人は多方面で活躍できるという認識を持つ ようになると思います。数学だけを発展させるのであれば、 一部の天才的な人だけでよいかもしれませんが、 幅広く社会に浸透し、多くの人々に文化として支持され、 発展させるためには、 数学力のある人こそ有用な人材であるということが、 広く知れ渡る必要があるでしょう。数学を学び、 その普遍性を身につけ、 一方で時代の変化に柔軟に対応し多方面で必要とされる人材こそが 、これからの数学人の一つの姿であり、先日集まった若い人々に、 その可能性を十分に感じることができました。
どうぞみなさん、本丸から外堀、そして一般社会まで、 数学に関わる人々がそれぞれの努力をすることにより、 数学の未来を築いていきましょう。そして、 少しずつ変わりつつある風向きを、 さらにによい方向に向けるよう、来年もがんばりましょう。
それではよい新年をお迎えください。
というのは、1990年代後半から10年余り、
当時、ある有名な先生は「
数学を学んだ人が、教員や研究者だけでなく、技術やビジネス、
どうぞみなさん、本丸から外堀、そして一般社会まで、
それではよい新年をお迎えください。
甲南大学知能情報学部 森元勘治
2012年12月26日水曜日
論文と現実歪曲フィールド
修士論文や博士論文を作成しているときの学生の心理状態というのは
普通の状態ではない、ということは長年感じています。
ただそれがどのような物であるのか表現する、具体的な言葉が
みつからからなかったのですが、それはもしかしたら
「現実歪曲フィールド」
かもしれない、というアイディアが浮かんできました。
現実歪曲というとなにかネガティブなイメージがあるのですが、
例えば、インターネットの世界は、これまで図書館に
いって半日かけて調べなければならなかった事項を、あっと
言う間に調べることを可能にしてくれる、という意味では
「現実歪曲フィールド」が現実になってしまった・・・
といえるでしょう。これなど現実歪曲フィールドが現実
まで昇華されたれいといえます。
数学の新しい結果というのは、他の人が聞いてすぐに理解できる
とうレベルでなされるのではありません。それこそ、それまでの
常識に反するような意外な発想が(原則として)かならず
あるのです。その発想を認めるということは、「現実歪曲フィールド」
をはるという感覚に近いのかもしれません。
普通の状態ではない、ということは長年感じています。
ただそれがどのような物であるのか表現する、具体的な言葉が
みつからからなかったのですが、それはもしかしたら
「現実歪曲フィールド」
かもしれない、というアイディアが浮かんできました。
現実歪曲というとなにかネガティブなイメージがあるのですが、
例えば、インターネットの世界は、これまで図書館に
いって半日かけて調べなければならなかった事項を、あっと
言う間に調べることを可能にしてくれる、という意味では
「現実歪曲フィールド」が現実になってしまった・・・
といえるでしょう。これなど現実歪曲フィールドが現実
まで昇華されたれいといえます。
数学の新しい結果というのは、他の人が聞いてすぐに理解できる
とうレベルでなされるのではありません。それこそ、それまでの
常識に反するような意外な発想が(原則として)かならず
あるのです。その発想を認めるということは、「現実歪曲フィールド」
をはるという感覚に近いのかもしれません。
現実歪曲フィールド
ウォルター・アイザックソンの「Steve Jobs」が文庫版になっているのを、
見つけて早速購入していま読んでいるところです。その中にJobsの持つ
特性として「現実歪曲フィールド」という言葉が出てきます。
あまり、よい言葉としては使われていないようですが、
例えば次のような場面は、私には好ましく感じられます。
技術者たちが「到底できない」と考えている問題に対して、
Jobsは「こんな方法もあるじゃないか」「あんな方法もあるじゃないか」
と次々提案をして、それを聞いた技術者たちは、「確かにそうだ、
我々はなぜ気がつかなかったのだろう」と、会議が終わる頃には
すっかり問題を解決できる気になる・・・・しかし会議が終わって
頭を冷やしてみると「なぜあれで、できるという気になったのだろう。
本当はやはりできないんじゃないか」と考えてしまう、といものです。
2012年12月25日火曜日
修士論文、博士論文
うちの大学の数学教室は学部の卒業に卒業論文は
必要ありませんが、大学院前期(修士)、大学院後期
(博士)を修了(:大学院を出ることはは「卒業」とはいわず「修了」
と言います)するにはそれぞれ修士論文、博士論文の提出が必要で
それぞれの論文に対して委員会が設置され、その内容を審査して
修士号、博士号を出すのに値するのか、審査します。
論文の提出は博士が1月前半、修士は1月終わりが締め切り
(年によって少しずつ違います)で、この論文の仕上げ
のために修士、博士最終学年の学生は12月
頃から修羅場に突入することになります。
一月に入るとそれこそみんな目の色をかえて、論文にの執筆に
取り組んでおり、過去には大学に泊まり込む学生もいました。
そうやってなんとか完成、提出をすませれば、それで終わり、
という訳ではなく、その後に公聴会(概ね2月の上旬から中頃
に実施)があり、自分の書いた論文の内容について、
非専門家も含めた人たち向けにプレゼンテーションをする
必要があります。この準備がまた大変で、何度も内容を
検討して、練習をして・・・公聴会をむかえます。
必要ありませんが、大学院前期(修士)、大学院後期
(博士)を修了(:大学院を出ることはは「卒業」とはいわず「修了」
と言います)するにはそれぞれ修士論文、博士論文の提出が必要で
それぞれの論文に対して委員会が設置され、その内容を審査して
修士号、博士号を出すのに値するのか、審査します。
論文の提出は博士が1月前半、修士は1月終わりが締め切り
(年によって少しずつ違います)で、この論文の仕上げ
のために修士、博士最終学年の学生は12月
頃から修羅場に突入することになります。
一月に入るとそれこそみんな目の色をかえて、論文にの執筆に
取り組んでおり、過去には大学に泊まり込む学生もいました。
そうやってなんとか完成、提出をすませれば、それで終わり、
という訳ではなく、その後に公聴会(概ね2月の上旬から中頃
に実施)があり、自分の書いた論文の内容について、
非専門家も含めた人たち向けにプレゼンテーションをする
必要があります。この準備がまた大変で、何度も内容を
検討して、練習をして・・・公聴会をむかえます。
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