さてこのような、ユダヤ人学生に対する差別はソ連だけのものであったのかと言うとそんなことはありません。実はアメリカの大学でも20世紀初めには「ユダヤ人学生上限枠」というものが存在しそのために物理学者リチャード・ファイマン(1965年ノーベル賞受賞)は希望するコロンビア大学には入学できなかった、ということです。このように特定のグループの人々に対して入学試験で基準を変えることはアメリカでも現在でも行われています。ただし現在でのこのような措置は、マイノリティなど社会的に不利な状況にある人達に対して、勉学の機会を与えると言った肯定的な機能を期待されているという意味で「アファーマティブ・アクション」と呼ばれています。(なお、「アファーマティブ・アクションは逆差別に繋がるのではないか」という意見もあり、このような方策については現在も議論が行われています。)
2011年度、2012年度の2年間附属中等学校の校長を、そして 2021年度、2022年度、2023年度の3年間附属小学校の校長を 努めました。その時に始めたブログです。子供たちや保護者の皆様向けの情報を発信していました。これからも少しずつ更新するつもりですのでよろしくお願いします。 コメントは出来ないようにしていますが、どうかあしからず。
2016年9月6日火曜日
2016年8月9日火曜日
数学とユダヤ人(4)
さてユダヤ人であったペレルマンは高校卒業後レニングラード大学への進学を希望しましたが当時ここには2名のユダヤ人しか入学が許されていませんでした(一学年の人数は350名)。しかし多くの人々の努力によりこの年は特別枠が与えられ、ペレルマンを含む3名のユダヤ人が入学することができました。これは当時「革命的」な出来事だったそうです。これが可能になったのは運によるところも多かったようです。実際のところペレルマンがもし5年早く生まれていたら、数学者としての道を歩むことはなかっただろう、と言われています。このような自身の才能と努力、周囲の人々の助け、そして幸運も重なってペレルマンは西欧の数学界でその実力が知られることとなりやがて、歴史的な成果を上げました・・・
数学の歴史の中では、時として個人や、社会構造の枠を超えた「数学の意志による事件」というべきものが起きることがあります。まるで社会的な困難や個人の意志を超えたところで「数学」というものが熟するのを持っていたように、革命的な結果が世に送り出しているように見える事件です。ペレルマンの成果もこのような事件に近いものであったのではないでしょうか(実際のところ状況はもう少し複雑で、ペレルマンの仕事に先立つものとして、1970年代にサーストンという数学者が提案した幾何構造という概念からこのストーリーは始まりペレルマンによって完結した、と見るべきなのですが)。
2016年7月24日日曜日
数学とユダヤ人(3)
このような教師が集まった数少ない学校の一つにレニングラードの二百三十九学校がありました。ここでは、数多くの数学オリンピックの出場者を輩出しましたが、その1人にグレゴリー・ペレルマンという男の子がいました。誰もが認める突出した才能を持っている一方で決して自分のことを前面に出すことのないペレルマンの性格は変わり者が多い数学の才能をもった生徒の中でも際立って変わったものでした。(彼は後に「ポアンカレ予想」という大難問を解決するのですが、それに関わる栄誉を全て拒否し、その後表舞台から姿を消し外界とのつながりを一切断ってしまいます。)
ところでソ連ではユダヤ人の先生・生徒をとりまく状況は過酷なものでした。例えば、この頃二百三十九学校にはヴァレリー・リジクという数学教師がいました。彼は長年にわたりペレルマンを含む多くの数学の才能ある生徒たちを育てましたが、ペレルマンの学年を指導した後に学校を解雇されてしまいます。これは彼がユダヤ人であったこととユダヤ人教師を減らすように圧力があった事が原因とされています。
研究者の間ではユダヤ人の優秀さはよく知っています(例えばノーベル賞受賞者の四分の一はユダヤ人であるという統計もあります)。1979年のロシア共和国ではユダヤ人の人口比率は0.5%に過ぎなかったのですが二百三十九学校の数学クラブの生徒の半数以上がユダヤ人であったそうです(なおユダヤ人とは本来は「ユダヤ教を信仰する人」という意味であって、特定の人種を指すものではないそうですが、当時のソ連では民族の一つと考えられていました)。政府はこのような状態を好ましいものと考えず、二百三十九学校のようにユダヤ人を「優遇」している学校には圧力を与え続けていた、ということです。
2016年7月18日月曜日
数学とユダヤ人(2)
さて私は1958年生まれで物心ついたころはこの宇宙開発競争のまっただなかで子供心に新聞の一面に掲載される新しい展開にこころが踊ったものです。そしてこの競争のハイライトである1969年のアポロ11号の月面着陸と二人の宇宙飛行士の船外活動の様子を朝早くにテレビの実況で見たことは今でもはっきりとおぼえています。その後両国の経済状態の悪化を背景にして1989年冷戦が終結これをきっかけに1991年にソ連が解体することになるのです。さてこの宇宙開発競争が節目を超えた1970年代のソ連の内情については「停滞の時代」と呼ばれる時代であったことが明らかになっています。(技術的にもアメリカを中心としたインターネット等の技術革新に完全に遅れをとったのでした。)
マーシャ・ガッセン著の「完全なる証明」(訳青木薫)はこの停滞の時代でのソ連での子どもたちの生活を、著者自身の体験や詳細なインタビューに基づいて具体的に記述しています。国家の方針により全国に建設された同じ間取りの家から、これまた同じ校舎の学校に同じ時間に毎日通い、同じ授業を受け、最終的には皆同じ評価がなされる。これが毎年繰り返される生活をガッセンは「これほどつまらないものが、この世にあるだろうか?」と述べています。ここでは全ての生徒が画一的に育つ事が期待され、人より優れた能力を見せることは悪とみなされていたのです。但し、このような時代であっても、どうしてもそのような生活に馴染むことのできない、好ましくない子どもたち(「みにくいアヒルの子」と例えられていました)がいました。そのような生徒の中には数学に関する才能を持った子どもたちがいたのですが、それと同時に中央の方針に逆らってもその子どもたちの才能を伸ばすことに尽くした先生たちもいました。
2016年7月16日土曜日
数学とユダヤ人(1)
1960年代アメリカ合衆国(アメリカ)とソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の間では、冷戦(核兵器の発達により大国間の直接的な戦闘が不可能となった状態)を背景に、宇宙開発競争と呼ばれる技術開発競争が行われていました。1957年世界初の人口衛星打ち上げに成功したソ連は当初この競争でアメリカをリードし続けていたのでした。この技術は核ミサイルの開発に結びつくものであり、このことは一般市民を含めたアメリカ社会に大きな脅威となりました(この時の衝撃は人工衛星の名前にちなんでスプートニク・ショックとよばれています)。これに対抗することはアメリカにとって国家的な関心事となりましたが、その頃の世の中の一般的な見解ではソ連では西欧とは違った理論に基づく高度な科学教育が行われており、それがソ連の競争力の源になっているのだ、と思われていたようです。アメリカはこれに対抗するためにその一環として数学・理科教育の充実が図られました。
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