当時のフランスの教育の中心ははナポレオンの導入した「グランゼコール」
と呼ばれるエリート校でした.グランゼコールは現在でもフランスのトップ
クラスのエリートを輩出しています.ポアンカレは1873年に理工系の名門
エコール・ポリテクニークに入学し,1875年には鉱山学を専門とする
グランゼコールのひとつエコール・デ・ミーヌに入学しました.卒業後は鉱山
技術者としての仕事をこなすかたわらシャルル・エルミートの下で博士論文
を書き上げています.1879年にはカーン大学で助教授の職についています.
(1878年フランス科学アカデミーが数学のコンクールを開催しましたが,)
当時ラザルス・フックスの手がけていた微分方程式の解との関連で生じるある
種の対象性を持った複素関数の研究に没頭しており,それに類似した関数が
存在するのかどうかを考えていました.このときの発見の様子をポアンカレは
エッセイ「科学と方法」の中で詳しく記述しています.
ここで得られた結果をポアンカレは1881年に発表します.その直後クラインは
この論文注目します.クラインは1881年6月にポアンカレ宛にこれらの結果に関
しては自分も既に気がついていたとの内容の手紙を送っています.これがきっかけ
となり二人の間で1年余り手紙のやり取りが続きます.表面的には紳士的なやり取
りでしたが中身は数学の優先権に関する熾烈な内容であり,最後は喧嘩別れの形
で終わっています.二人はお互いへの対抗意識から研究にのめりこんでいきますが
これはクラインにとっては大きなストレスとなります.1882の秋には彼はとうとう
健康を害して,重いうつ病にかかってしまいます.うつ状態が1984年まで続きそれ
から回復した後も数学に関してはその輝きを取り戻すことはありませんでした.
彼自身は「理論数学における私の本当に生産的な仕事は1882年に終わった」と
書いています.