2025年7月1日火曜日

数学と生きづらさ(2)

では、次に2つ目の観点についてお話しします。

最近、「生きづらさ」という言葉を耳にする機会がずいぶん増えました。
私の身のまわりでも、たとえば数年前に大学で行われた教職員向けの研修の中で、この言葉が取り上げられていたことがあります。


その研修では、最近の学生が抱えるさまざまな課題について紹介されていました。たとえば――
・大学に入っても、友達ができず孤立してしまう
・就職活動の一歩を踏み出せない
・ようやく就職しても、すぐに辞めてしまう

こうした学生たちの行動や状態の背景に、共通して見られる要因として、「生きづらさ」があるのではないか、という指摘がなされていました。

では、そもそもこの「生きづらさ」とは何なのか?
その正体とは何なのだろうか?
私の中にそんな問いが浮かびました。

その問いに向き合う中で出会った一冊の本があります。
タイトルは『消えたい』。
この本では子供の頃に虐待を受けた人たちについて書かれています。
このような人たちは虐待がトラウマとなって、多くの場合大人なっても生きづらさを感じながら生きていく、例えば結婚して母親になっても自分の子供を可愛がることができない、むしろ子供が近づいてくると恐怖を感じる、といった生活を送っています。
この本は、このような「生きづらさ」と向き合いながら、どのように生きていくのか――その姿を丁寧に描いた本です。


この本の中に、非常に印象に残った記述があります。

虐待を受けて育った人は、人生の辛さから逃れるために
「死にたい」とは言わない。「消えたい」という。

「死にたい」は、「生きたい」「生きている」を前提としている。
「消えたい」は、「生きたい」と一度も思ったことのない人が使う。


またこれは「僕には数字が風景に見える」という本です。
著者のダニエル・タメットは発達障害を抱え、子供の頃は
人と会話をしていても、相手の顔を全く見ずに、自分の言いたいことだけをひたすら喋り続ける、
といった具合で人とのコミュニケーションが取れませんでした。
そのころのことを彼は次のように書いています。

ぼくはいつも消え去りたいと思っていた。どこにいても自分がそこにはそぐわないと思っていた。まるで間違った世界に生まれてきてしまったような感じだった。

やはり彼も「消え去りたい」という表現を使っています。さらに彼は自分は「間違った世界に生まれてきた」ように感じていたのですが、私にはこれこそが「生きづらさ」の本質なのでは、と直感しました。つまり

「生きづらさ」とは、
“自分はここにいてはいけない存在なのではないか”という感覚のこと。

これが、私が気づいた2つ目の視点です。


最後に、3つ目の観点についてお話しします。


これは、鈴木大介さんの著書『されど愛しきお妻様』という本に基づくものです。
タイトルにある「お妻様」とは、鈴木さんの配偶者のことで、発達障害を抱えていらっしゃいます。

このお妻様は、いわゆる「日常生活」を送るうえで、多くの困難を抱えておられました。
たとえば――
・朝は起きることができない
・食事の支度ができない
・会話がなかなか噛み合わない
・買い物を頼んでも、時間がかかるうえに、関係のないものを買ってきてしまう

そうした様子に、当初の鈴木さんは戸惑い、ストレスを感じていたといいます。

ところがある日、鈴木さん自身が脳梗塞を患い、その後遺症として「高次脳機能障害」と診断されることになります。
この障害により、鈴木さんは、今までごく当たり前にできていたことが、思うようにできなくなるという、数々の不自由を経験することになりました。

しかし、まさにこの「不自由さ」を身をもって体験したことによって、鈴木さんは、お妻様が日々どのように世界を感じ、どれほど困難を抱えて生きているのか――
それを、ようやく実感をもって理解できるようになったと言うのです。

そしてその理解をもとに、鈴木さんはお妻様との関係を、少しずつ、でも着実に再構築していきます。
この物語は、障害をめぐる“共感の可能性”について、私たちに多くの示唆を与えてくれます。

本の中で、特に印象的だった一節をご紹介します。

見えない不自由を抱えた人たちに、やろうとしてもできないことを強いる。
そんな周囲の無理解が、一層当事者の不自由を「苦しみ=傷害」にしてしまうのは、
あまりに残酷なことだ。
環境が不自由を障害にする。
これは、さまざまな障害支援の現場で普遍的に語られている考え方だが、
僕は、自分が当事者になって、ようやくその意味を心の底から理解することができた。

私にとって、ここで得た最後の気づきは、この言葉に代表されています。


「環境が、不自由を障害にする。」

つまり、ある行動ができるかできないかは、本人の能力だけではなく、
その人が置かれている環境――周囲の理解や制度、文化――によって、大きく左右されるということです。そして私としてはこれに:

「テクノロジー」というのは、環境からくる「障がい」を無効化する機能がある

という主張を追加したいと思います。
この視点は、教育の現場や社会全体を考えるうえでも、非常に重要なものではないかと感じています。