この度は、講演の機会を与えていただきありがとうございます。では本日の講演「数学と生きづらさ」を始めさせていただきます。
まずは、このテーマの出発点になった、ある出来事についてお話しさせてください。もう20年以上も前のことになりますが、当時、私のゼミに所属していた4回生の学生が、「就職のために推薦状を書いてください」と言ってきたんですね。その時はまだゼミを始めたばかりでゼミの内容について書くことはほとんどなかったので、彼女に、「これまで大学で学んだ数学の中で、いちばん興味を持ったことは何ですか?」と尋ねました。
するとその学生は、はっきりとこう言ったんです、「大学で学んだことで、興味を持てたものは何もありません」と。
そんなはずはないだろうと思って、いろいろ話を聞いてわかったのですが、彼女はたしかに色々な数学の講義の単位は取ったものの、「自分は数学を操れる」と感じることはできない、という状態だったのです。
この時のことが、ずっと私の中に引っかかっていて、以来ずっとモヤモヤした気持ちを抱えていました。
最近になって、そのモヤモヤに対して、ひとつの見方ができるようになってきたのでそのことを少し、みなさんに聞いていただけたらと思っています。
最初に、数学とは一見関係のなさそうな、けれども「生きづらさ」というテーマを考えるうえで、大切な3つの事例についてお話しさせてください。
私がかつて大学の倫理・人権委員会の委員を務めていたときのこと、その活動を通じて「女性の貧困」という問題に関心を持ち、少し調べてみたことがありました。その際に読んだ本のひとつが、タイトルもそのまま『女性たちの貧困』という本でした。
たとえば「ホームレス」と聞いて、皆さんはどのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。おそらく多くの方が、ボロボロの服を着た中高年の男性が、路上の段ボールの家で暮らしている――そんな姿を思い浮かべるのではないかと思います。
しかし実際には、そのような「見えるホームレス」とはまったく異なる、
“見えないホームレス”と呼ぶべき人たちが存在しています。
『女性たちの貧困』の中で、ネットカフェで暮らしている、19歳と14歳の姉妹の話が紹介されていました。彼女たちは、毎朝ネットカフェをチェックアウトしてそこからコンビニのアルバイトに出かけ、夕方またチェックインするという生活を繰り返しているとのことでした。外見はごく普通の女子学生と変わりません。けれども、実質的には住居を持たず、いわゆるホームレスの状態にあるのです。
このような“見えないホームレス”は、行政の支援制度の網の目からも漏れがちです。なぜなら、見えていないものには対策が立てられないからです。このように、「女性の貧困」には、社会の目に映らない困難が潜んでいるのです。
客観的に見ると、彼女たちの生活は不合理です。安いアパートを借りた方が、ずっと生活に余裕が出ます。しかし、彼女たちはそのような生き方をしようとはしません。また公的な支援制度などがあることをしらないか、また知っていても「自分達のような人間が公的な補助を受けるのは申し訳ない」といって申請をしようとしない。この点についてこの本の中に、こんな一節がありました。
「貧困とは“お金がない”ということだけでなく、
“教育”や“情報”が欠けている状態でもあるのではないか――。
それが、取材を終えた私の実感です。」
この言葉を読んだとき、私はあることに気づきました。
それは「貧困」と「貧しさ」という言葉は、似ているようで実は異なる概念なのだ、ということです。
ここで、一度このふたつの言葉の意味を整理しておきましょう。
「貧しさ」とは、主に経済的な困窮を指します。
つまり、金銭的に余裕がない、生活が苦しいという状態です。
一方で、「貧困」とは、教育や情報が無いため“社会とのつながり”が欠如した結果として、所属するコミュニティから適切な支援が受けられず、生活の質――QOL(Quality of Life)が低下している状態を指します。
もちろん、多くの場合「貧しさ」が「貧困」を引き起こすきっかけにはなりますが、両者は必ずしも同じものではありません。例えば私と両親は、私が幼い頃、長屋のような府営住宅に住んでいました。家計は苦しく、物質的には「貧しい」暮らしでしたが、近所の人たちと助け合いながら、日々をやりくりしていました。私の家は当時としてはまだ珍しかった共働きの家庭で、幼い私は母の帰りが遅い時などよく近所の方に面倒を見てもらっていて、おかげで惨めな経験をした記憶は全くありません。こうした生活はたしかに「貧しい」かもしれませんが、「貧困」とは言えないように思います。
一方で、経済的にある程度の余裕があっても、社会的に孤立し、QOLが著しく低下しているような状態は、むしろ「貧困」と呼ぶべきなのではないでしょうか。
この「貧しさ」と「貧困」の違い。まずはこの点を、皆さんと共有しておきたいと思います。